進学塾nend

Thousand Paper Cranes

   

青い空は青いままで 子どもらに伝えたい
燃える八月の朝 影まで燃え尽きた
父の母の 兄弟たちの 命の重みを 肩に背負って 胸に抱いて

(「青い空は」詞・小森香子 / 曲・大西進)

 

少し休みを頂いて、広島旅行に行ってきた。目的はしまなみ海道でのサイクリングだったのだが、広島に来たなら原爆ドームは訪れておきたかったのだ。

広島の原爆ドームを初めて訪れたのは、小学校6年生の修学旅行のときだった。
今でも道徳の授業で原爆や、戦争の悲惨さや差別について教えているかはわからないけれど、僕のいた小学校では、毎日詩をかかせるという宿題を出していて、その宿題の中で僕は次のようなことを書いたことを覚えている。

「ぶらっくさべつ」
ぼくのおかあさんは、ぶらっくさべつというのがあるのよといいます
どうしてぶらっくさべつがあるのかな
ぼくはぶらっくさべつは よくないとおもいます

おそらく詩の題材に困った僕は、飼っていた犬のクロをなでながら「ぶらっくさべつ」というどこかで聞きかじった言葉について書くことを、テキトーに思いついたのだろう。
担任の先生が朝の会でこれを発表し(そのとき、先生がどれほど興奮していたかはわからない。僕ははずかしくてずっと下を向いていたのだ)、みんなでこのことを話し合おうといったが、みんな何の意見も思いつかなかった。僕もそうだった。きっと先生はがっかりしたにちがいない。休み時間になって僕はひどくからかわれたが、次の日にはもう誰も何も覚えていなかった。

広島の原爆については、やはり道徳の授業で学んだ。子どもの僕たちにとってはショッキングな内容だったし、挿絵はグロくてオエェッって感じだった。道徳の授業では時折ビデオも見させられた。原爆のビデオはちょっとしたホラー映画のようで、視聴覚室の重くて分厚いカーテンを引いて真っ暗にした部屋の中、女子たちはキャーキャー抱き合って見ていたし、僕らは寝ているか、ふざけてクスクス笑っているだけだった。見終わって視聴覚室を出るときに、「被爆者のマネ~」なんて言ってゾンビのように手を前に突き出して歩いて出ようとしたヤツは、そのまま先生につかまって休憩が終わって次の授業になってもしばらく戻って来なかった。

そんな僕らは広島の原爆ドームの前に並び、記念写真を撮った。僕はアホの子のように座っていて、担任の先生はりりしく美しかった。もう30年も前のことだ。

大人になって、訪れた原爆ドームはもっと違っていた。
原爆資料館には焼けた衣服や、かばん、校章が展示されていた。バスの定期券には名前が書いてあって、それらは生きていて、笑ったり、悲しんだり、落ち込んだり、喜んだりした子どもたちが、何の前触れもなくあっけなく爆弾に焼かれ、被ばくし、理由も何もわからない中で死んだんだ、ってことを淡々と訴えかけていた。思い出は少しずつ風化し、当たり前のように平和な日常の中で、僕たちは日々忙しく暮らしている。原爆ドームや資料館や、平和を求める祈りは、もうその役目を終えたのかもしれない。ただそれらは「忘れないで」と訴えかけているような気がして、僕は気がかりになる。

僕の教え子が、大学AO入試で世界遺産について調べるために原爆ドームを訪れた。女の子で、旅行は気がかりだったのだろう、両親は外泊を許してくれず、一日で広島へ行って戻る強行軍だったが、たくさんの写真を撮って帰ってきた。彼女がそのレポートの中で、原爆ドームについてこう述べている。

“ありえない方向にねじ曲がった鉄骨やくずれおちた壁。がれきが散乱していて、そばに立つのも恐ろしく感じた。目につくものは灰色ばかりで、まるでそこだけが時代を切り取ったようにも思えた。”

何年経とうとも、その意思を受け継ぐ人はいる。

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