Nend Community News 2024-8月号 電子版
「今月の言葉」
蝶を追いかけるのに時間をかけすぎると蝶は逃げてしまいます。しかし、庭を美しくするのに時間をかけるなら蝶は必ずやってきます。
───anonymous
トピック「快か不快か——私たちの行動原理」
『人間は絶対に自分の利益にならないことはしない。もし、あなたが何らかの悪習慣をやめられなかったり、様々な悪感情から抜けられなくてつらいとき、その状態にい続けることによって、何らかの利益を得ている側面がないか、慎重に考えてみなさい』
これは、ネットの短文投稿サイトで見た一節ですが、これは学習理論と呼ばれ、心理学的にも正しい知見です。
私たちは自分の利益=快につながることを繰り返し行う習性があります。いや、そんなことはない、わたしは自分を犠牲にしても他人に親切をするようにしている、という人もいらっしゃるでしょう。しかしそれすらも「自分は正しいことを行っている」という自己満足、もう少し良い言葉で言い換えれば自己肯定感を得るために行われているといえます。
ここで大切なのは、学習理論——すなわち私たちが本能的に快を求めるという習性は、自分が意識している・していないによらないことです。先ほどの例でいうと「あなたが他人に親切なのは、自己満足を得たいからだ」と指摘すると人はそんなことは微塵も思っていないと、驚いて憤慨します。
もちろんそんなことを考えて他人に親切にしているわけではないでしょうから、憤慨するのももっともですし、不遜な指摘です。ただ、人間はそのようにできていると理解することは、私たち自身や子どもの問題行動を解決するのに役に立ちます。
いじめっ子にいじめをやめさせるには、他人の気持ちを考えることや親の愛情を説くよりも、学年の途中でクラスを変えさせ、毎日校長室へ出向かせて反省文を書かせ、放課後に清掃を行わせるなどしたほうが効果が高いといいます。人間は常に自分の快が行動原理になっているため、いじめをするとこんなに面倒なんだと体験させると途端にいじめが止むそうです。
勉強でいえば、私は勉強が大好きなのですが、それは自分ががんばっているという自己肯定感を簡単に得られるからです。勉強嫌いの子どもは勉強することによって快を得られていない——自己肯定感を得られていないどころか劣等感を感じたり、さらには勉強を押しつけられたり、勉強に付随して叱られたりということがあるのではないでしょうか。
私たちが自身の抱える問題に思い悩んだとき、これによりどういった快を得ているかを考えてみましょう。
「ねんちる」第198段
連日パリオリンピックが盛り上がっています。オリンピックといえば、私たちは選手に「がんばって」と声をかけますが、アメリカでは「Do it!(その調子)」と言います。選手からすれば「がんばって」と言われると(がんばっているだろ!)と思うかもしれませんね。「がんばれ」とは私たちが安易に使い過ぎる言葉かもしれません。
感受性の強い子の場合、「がんばれ」と言われると、まるで自分がダメだと言われたように感じてツラくなることもあるそうです。私は子どもには「自分のペースでやれるだけ」「無理をし過ぎないように」勉強するように伝えています。息抜きも大いに結構。
以前の生徒に、入試前に実際に「吐くほど」勉強した子がいました。勉強してはトイレに行って吐く。何日もこれを繰り返し、トップ高校に合格しましたが、中退しました。がんばりすぎはよくないということです。