進学塾nend

1996

      2015/03/01

初めて塾の先生になったのは22歳の夏で、テレアポ営業に嫌気がさして、えいやと会社を辞めてしまい、財布の中の数千円だけでどうやって今月を過ごそうかと考えていた。

上京して一人、小田急座間駅を見下ろす高台の4戸1のアパートの2階を借りていて(そこは夜に町の明かりがとてもキレイなことだけが取り柄だったのだけど、隣の住民と下の住民が目覚まし代わりに毎朝爆音で音楽を流すので、どうにかなってしまいそうだった)、家具もなく、テレビもなく、なけなしのお金で買った5枚のCDを収められるアイワのコンポーネント・ステレオで、寝転がって天井を見ながら一日中ずっとエルビス・コステロを聴いていた。

とにかく新卒で4月に入社してからわずか3カ月で仕事を辞めてしまい、大阪に帰るわけにもいかないので、厚木の職安(このころにはもうハローワークと呼ばれていたかもしれない)に行って仕事を探した。
このころ、前職を辞めた痛手から、人の役に立つような仕事がしたい、学校の先生になりたいと、タバコを吸いながらぷらぷら考えていて、平塚市内にある塾の仕事を見つけた。

電話で問い合わせると、「君は何の教科が教えられるの」と聞かれ、国語ですと答えると、「数学できない?うち今数学が欲しいんだよね。入社試験で、点数良ければ採用するよ」と言われた。じゃあ、一週間ください。一週間後に試験を受けにいきます、と言って電話を切った。

座間のユニーの前にある本屋に行って一週間で中学数学を復習するといううたい文句のついた「合格BON」というふざけた名前の問題集を買って勉強した。お金もなく、しけたタバコを吸い、ご飯にレトルトのカレーをかけて食べた。夏で、開け放した窓から見る夜の町は静かで、眼下をときおり小田急線が通って行った。

1週間がたち、平塚まで試験を受けに行った。七夕祭りのころで、街は飾り付けがされ、賑やかで、少し海の匂いがした。
入社試験はあとから聞くと、神奈川県の平成八年の入試問題だったらしい。50点満点中の44点で、「今まで受けた人の中ではダントツに良かった」らしい。

そうやって、僕は数学の先生になった。以来ずっと平塚にいる。もう海の匂いはしないけど、この町をずいぶんと気に入っている。

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